ありがとうございました

 過日、母が病院で息をひきとりました。
その時、その時の愚痴をかきつらねてきましたが、応援をいただき、嬉しくおもいました。
 告別式を終わらせ、まだ、後始末にバタバタしています。落ち着いて母のことを考える余裕もありません。
 しばらくして冷静になりましたら、またこのブログをつづけるかどうか考えさせていただきたいと思います。
 しばらく、お休みさせていただきます。

ソラナックス

 夫は放射線科の先生に「どうですか?」ときかれ、「手術前のように元気がない」と答えたと言う。
「元気が出る薬です。」とソラナックス抗鬱剤)を処方された。1日3回食後に飲むように・・
ところが、夫は毎日この2〜3日うつらうつらばかり、
外科の検診のとき
「どうしたのですか?上のまぶたが下のまぶたにびくっつきそうですよ。」
ソラナックスを飲んでいます」
「それはあなたには合わないのですよ。すぐやめなさい。」
「しかし放射線科で処方されたのですが・・」
「合わない薬をのんではいけないのです。だから眠いのです。」
ソラナックスを処方されたときわたしやちょきこがいくらいっても言うことを聞かなかった夫。やっと合わない薬をやめてくれてほっとした。

インフルエンザ

2日前、午後3時過ぎ、急の咳がひどくなった。咳止めを飲んでも止まらない。なんとなくしんどい。仕事をおえてふらふらしながら言えに帰った、ものをいう気もしない。食事も喉を通らない。夜中39℃の熱がでた。体のふしぶしが痛い。痰の色は白い。横になっていると、体のもって行き場所がないほどしんどい。
 翌朝、かかりつけ医のところに行くと鼻汁を取って検査してくれた。
「A型のインフルエンザです。発熱は昨日からですね。」と聞かれタミフルを処方された。
「ご主人にうつるといけません。」
「インフルエンザの予防接種してますが・・」
「いや、完全ではないですからね。ご主人も予防のため三日間タミフルを飲んでくだい。」
昨日1日、ポカリスエットが飲めただけ。今朝タミフルをのんで一眠りするとずっと体の調子がよい。食事も普通にできはじめた。インフルエンザは無事通過したようだ。

食事の飲み込み

母は、最初今日退院の予定だった。(昨日、検査の結果がよければであるが)
電話で確認したところ、「飲み込みが悪くなっているので、栄養状態について、話があります。今日、病院に来てください。」とのことだった。
 主治医は「2月10日、急に食べ物の飲み込みが悪くなりました。脳梗塞の心配をしてCTはとりましたが、異常はありません、ただ、今後飲み込みが悪いので、栄養がとれません。鼻からチューブを入れて、胃に栄養をながすか、中心静脈栄養をしないと体力が、持たないでしょう。」といわれた。
 2月10日が母の誕生日で90歳、今さら、鼻にチューブをとおしたり、中心静脈栄養をするのは,母の体に負担がかかって、可哀想。だから、そのままにしてもらうことにした。
 母は食べ物が飲み込みにくくなって、衰えていた。急にやせ、私に気がついて、目を開けるがすぐ上のまぶたが、下にくっつく。とろとろと眠ってしまう。
 足りないバスタオルを近くで買い求めて、眠った母が気になったが、明日の仕事があるので病院をあとにした。

定期検診前夜

夫は明日主治医の定期検診である。相変わらずの様子なので、多分大丈夫と思うが、無事と聞くまで不安なものである。
 体重は2kgくらい増えている。しかし、食べる量は、手術前の半分くらい、アルコールは欲しいらしいが、やはり怖いようだ。動きすぎると疲れるという。放射線科の先生は、気の性といわれるが、そればかりでないような気もする。
 主治医は「春まで待ちましょう」といわれるが、もう、あと1ヶ月半で1年になる。
 よく、無事にもってくれたものだ。食べ過ぎるとしんどいらしい。すぐ横になる。現役をリタイアしているので、これでももつのだろう。

誕生日

ゆっくり、母の顔を見ていたかったが、明日は仕事、もし家まで帰れなければ困ると思い、母に夕食をたべさせ、先生の話を聞き、おむつの補充をしてあわてて駅にいそいだ。やはりまだ列車は海を渡れなかった。
 新幹線の駅につくと夜9時半、なんとか最終バスに間にあった。
 正直つかれはてた。
 三日間の勤務が終えた今日、午後完全にダウン、4時間あまりも眠ってしまった。
 今日は、私の誕生日。ちょきこがショートケーキを差し入れてくれた。
 夫は、大福餅を買ってきてくれた。嬉しかった。でも、いくら甘い物がすきだといってもね!
 あ〜!また、年を重ねてしまった。でもまだまだ、やらなければならないことがる。考えようによっては、まだ人に必要とされるだけいいのかも・・・
 明日から、元気を取り直して出発!
 

母は海の向こうにすんでいる

朝8時半に家を出た。母の入院している病院のある町まで10数分のところまで来て、「つり橋が風のためわたれません。列車は運行中止です。」との車内放送である。
 午後1時前「ここまで来て母の容態も分からず、用意してきた着替えも渡せず、どうしよう。」となやんだがどうしようもない。
 1時間くらい待って、隣町から、フェリーで代行輸送するとの放送があった。列車を乗り継いで、一時間、フェリーで一時間、目的の町まで40分くらい列車で行く。着いたのは午後5時、つかれはてた。
 つり橋は「船でわたると危険なときがある」ということで作られた。確かに便利である。目的地が海の向こうにあることを忘れさせてくれていた。
 しかし、母は海の向こうに住んでいるということを今回はつくずく思い知らされた。
 幸い、母は母らしい顔をしていた。熱も下がっていると言う。
 担当医は「尿路感染症です。おむつを使えばしかたありませんな。熱がでていたのは細菌が腎臓まで行っていたときですな。」と言われた。細菌がきえれば退院できるという。
 苦労していった甲斐があったというものである。